原紙を意訳したものです
▶ 原稿枠内
そもそもこの神野新田は、元は長門国の毛利祥久が三河国渥美郡牟呂湾海面を築立した𠮷田新田(毛利新田)である。
しかし地震や津波による壊滅後の地籍を明治26年に私が買取して再築開墾して、新たに神野新田と命名された。
そして新田を良田耕地とするために移住民の募集に尽力して遠近より転住し来る者が数千名に達した。
これら移住民を統括するには宗教の必要を感じ、また神野富田両家の菩提を永代維持継続するためにも寺院建立することにした。
そこで明治28年京都府下山城国の伏見にある圓龍寺と称する無住寺院の寺籍を譲り受け、当時豊橋別院の輪番職であった船見恵眼に依頼し寺の住職とすることとなった。
そして圓龍寺を神野新田に移転し、明治二十九年に仮堂を新設して、そして入佛式を執行した。
また、三十年には梵鐘を伊勢国の桑名広瀬興左衛門に鋳造を発注し、三十一年には鐘楼堂を建築した。
しかし仮堂では佛祖の尊敬を欠き、その狭まさのため布教に洩れる者も少なくない。
よって本堂の新築を急務として明治三十三年に土木の取りまとめを集め、木材運搬に着手した。
そうして三十四年に起工式を行い、三十五年に立柱式を執行して着々と工事を進め、明治三十六年 月 日の吉日に上棟式を挙行した。
神富の両家はもちろん、数千人の移住民に於ても無極の喜びを表していた。
よって、これを後世の記念として記述しておきます。
明治三十六年 月 日 神野金之助
富田重 助
▶ 原稿上部枠外(判読不可文字は■)
1ページ
寺院の新設■
■■する■■■■
の■■■依り
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■■
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■■■
2ページ
■■年本山
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■■の■■■■す
三十年神野
富田の両姓名
の頭字取り神富
山と云う山号
本山より下附
せられたり
▶ 気付き事項
・沿革史が書かれた翌年の明治37年に本堂が完成、4月15日 に遷佛供養会が厳修された
・原稿枠内から、圓龍寺は神野富田両家の菩提寺としても考えられていたことが分かる
(本堂の右奥に両家合同の仏壇があり、位牌も祀られています)
・原稿枠外から、初代金之助が「神野富田の頭字の神富が山号だ」と明言している現時点で唯一の資料
(山号の読みは しんぷう山)
・会社や組織や寺社の名前以外に「神富」が出てくる資料は、この資料以外には見ていない
・神野家は「じんの」から「かみの」に改称しているが、時期は明治40年と考えられる
・枠内外とも「神富」とあるが読み方が複数あり、総てに付いては分かっていない