開拓前後の地図

▶ 工事前の干潮時の干潟

 ・干潮時は干拓予定地のほとんどが顔を出す

▶ 工事前の満潮時の干潟

 ・満潮時は海岸沿いの砂浜が残るだけ



 干拓地は堤防で外海と仕切ってから新田内を排水して、海底を土地化する必要がある


▶ 第一回工事後(明治22年)

 ・堤防内全体の土地化から、排水は完了している

 ・柳生川堤防が無く、二回新田の約半分は池状態

 ・ため池?の左側がきれいな直線なのは第一号堤

  防がある証明、北側は独立した干拓地(新田)

▶ 第二回工事後(地図は大正7年)

 ・柳生川堤防が出来、独立した二回新田が出来る

 ・柳生川堤防が出来、外洋と市場港がつながった

 ・柳生川の桝形は市場港に代わる港にしたかった

 ・梅田川の蛇行跡のえぐれが池にされている


全体が一つの囲われ地

第一~第五堤防で囲われた北側が「第一回新田」

地図は大正7年時点

大手と柳生川の堤防で囲われた南側が「第二回新田



▶ 第一回工事後(明治22年)拡大

▶ 第二回工事後(地図は大正7年)拡大


柳生川堤防が無く、池?の右側が砂浜

柳生川堤防による柳生川の延長



▶ 昔の地図を見る(今昔マップ)

 ・ここをクリックで上記の明治23年発行(地形は明治22年頃)の地図にリンクします

 ・新田全体が1つの囲われ地となっているが、柳生川堤防だけがまだ無い

 ・この地図が残っているおかげで、明治23年の地図は過渡期の「第一回工事」後と言える

  (工事が大きく2回に分けて行われたことが分かる、ジャストタイミングの奇跡の地図だ)